シーボルトと蘭学への志

愛するみなさま

今日も、あなたがいてくださりありがとうございます。^^)

あなたはだれか尊敬する人がいますか? こうなりたいと思うような部分を持った人がいますか? その人と同じようなエッセンスを、あなたももっているから、だから、その人のその部分がいいな、と、思うのでしょうね。 ^^)同じものがあなたのハートの中になければ、そんなふうに、<すてき>とは、思わないですから。^^)

私の母方の先祖で、江戸時代後期の人に、医師が2人います。漢方医ではなく。西洋医学、蘭学を、長崎で学び、蘭方医として、活躍した人たちです。

江戸時代は、265年に渡り、みなさまご存じのとおり、鎖国が徳川幕府の国策であり。外国からのニュースは入らず、交易も諸藩は行っていませんでした。

それでも、長崎の出島、という、1か所だけは別であり。ここには、オランダ人、(中国人も)だけがいることを許されており。医学、貿易、最新の外国情報はここにだけ入ってきました。

画像元:wiki

来日した医師で有名な一人は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト、という神聖ローマ帝国生まれの医師です。 オランダ人ではありません。

シーボルトは、1823年、27才で来日。彼の話すオランダ語は、当時長崎にいたオランダ人の発音とは異なり、要するに、ドイツ語(または、ドイツ語なまりのオランダ語)だったわけです。

オランダ人の話すオランダ語に慣れていた長崎の日本人蘭学者は、シーボルトの話す言語を<この人の話す言葉はオランダ語ではない(オランダ人以外の外国人は、日本に入国してはいけない!鎖国の法規を破ることになるので!重罪になる。)>、と、怪しんだそうですが、

シーボルトは、<私はオランダの山がある地方の出自であるから、話す言葉が少し違うのだ>と言い訳をして、なんとか、納得させたそうです。(実際には、オランダは平地であり、山はありません!笑)

確かに、オランダ語は、英語とドイツ語の中間のような言語です。地理的に、英国とドイツの中間に位置するわけであり、私のほんのささやかな知識でいいますと、言葉も、英語とドイツ語が混じった部分がかなりあります。

シーボルトは出島にて、医院を開業し、患者が多数来て。。

かつ、出島の外に、鳴滝塾という蘭学塾(西洋医学塾)を作り、教えることに。当時の多くの藩から集まった医師、学者らに、医学講義をします。。。この中には、後年有名な医師、学者になった人たちがいます。(またその人たちの弟子、そのまた弟子と、、、蘭学者(西洋医学者)の裾野は広がっていく、、)

おそらくこの頃、私の先祖のひとりも長崎に行っています。シーボルトが一度目に日本滞在した5年間の間に、直接、指導を受けれたのかどうか、、ビミョウです。わかりません。^^)

西洋医学の講義は、オランダ語でされるわけであり、オランダ語の習得は必須でした。オランダ語の医学書も読めなければなりません。

オランダ語学習は、今のようなインターネットや、本屋で簡単に買える学習書の普及があったわけではないので、難儀をきわめたと思われます。

この時代のある人が、蘭学者を志したとする。たとえば、武家の三男坊とか、医者や学者の息子とか、、とにかく、新しい知識の習得について燃えている人たち。

オランダ語の本を入手できたとしても、その1ページ目、単語ひとつの意味を、辞書もない状態でどう理解する? なんとか意味がわかる単語がでてきても、それをつなげていって、いったいいつになったら、書籍をすらすら読みこなせるまでになるのか?

オランダ語のアルファベットすら知らない人たち、

たとえると、外国人で、日本語の<あいうえお>すら知らない人が、いきなり、日本語の医学書を手にして、それを何とか読みこなしたい、と切望するものだろうか。熱意と実力のバランスが激しく空回り。。

ということで、オランダ語の初学の困難さ、辛抱は、ものすごく強いモチベーションがなければ続かなかったのでは、、、と、想像します。

きっと、困って、のたうちまわっているうち、運よく、地元に誰か、蘭学者がいることを聞きつける。(ニュースは、人から伝播してくるものだけ!テレビ、ラジオもない時代だから!)

その蘭学者の弟子にしてもらえて、なんとか、”読解”を学ぶためスタートに立てる!ここでやっと、オランダ語のアルファベットから学び始める!

その次は、、長崎の鳴滝塾に留学するための、藩からの許可も必要!藩を説得しなければ、です。自分で勝手に藩の外に移動することは、基本的にできない時代です!

(だから!坂本龍馬とか、幕末志士は、<自分の望むとおりの移動の自由>を得るため、脱藩したんです!^^)脱線ここだけ。)

(他藩での学習(自藩を出る)は、当時、外国に行くのと変わらず、”留学”です!^^)

この学生さんが、鳴滝塾に到着後、最初の授業を見学したとき、、、

目の前で、オランダ人教授が、オランダ語での医学講義をすらすらしていったのを目撃した、当初、まず、とんでもなく圧倒されたのでは?などと想像します。長崎に着いて初めてオランダ人に遭遇し、生のオランダ語を聞いた人たちも多かったはず。このカルチャーショックの激烈さは、現代人にはまず想像できません!^^ 文字通り、<天地がひっくり返るような>衝撃だったことでしょう。

最初のショックが去り、<(それでも!)私は蘭学を修める!>、この人が、改めて、腹決めして、激しく学習に取り組みはじめて、

当然、書物のオランダ語ことばと、音声のそれが、頭の中でつながるのにも時間がかかったでしょう。 今のような録音機器もなく、繰り返し聞くことはできないので、毎回の講義は、1回こっきりのライブだけ。 学生側は、必死に理解、記憶、習得しなくてはならなかったでしょう。教える側も、学ぶ側も、迫力が違います。

この江戸時代中期~後半にかけて、ものすごい熱意で蘭学を志し、習得していった蘭方医のことを思うと、私はとても感動するものがあります。 何か、私も、一部、志を同じにしているような気持ちがあります。

環境が整っているとか、誰かから応援されているとかいないとか、お金があるとかないとか、そんな外側の事情に関わらず、とにかく、<自分は蘭学をおさめて~するのだ>という志を骨太に持っていて、そのとおりにした人たちのことがいたろうことを、とても心強く思っています。

私の先祖が、おそらくとてつもなくあこがれたオランダの地に、180?年後、子孫の私が行き、オランダ、ライデンにあるシーボルト邸まで行けたこと、また、オランダ人の友人をもっていることも、とても意味あることのように思います。 日本とオランダの友好も、私の先祖は篤く願っていたでしょぅから、私も、それを受け継いでいます。ありがたいことです。

おつきあいくださりありがとうございました。^^)