親愛なる皆様
こんにちは。今日も、あなたがいてくださることを感謝します。^^)♡
ずいぶんご無沙汰してしまいました。
その後、いかがお過ごしですか。
今のさわぎもずいぶん長くなってきていますね。
日常生活をふつうに送れることが、どんなに恵まれたありがたいことか、何だか少しかみしめるような心境になることもあります。
毎日、小さなことで笑ったり。大切な誰かがいてくれることだったり。。
これまで気がついていなかったけれど、実は幸せだったのね!といったことがふと、認識されていくことがありますね。
先日。私は、東京、三鷹駅からのバスに乗りこみました。
まだ、バスは発車していません。
後続の乗客方が、210円の料金を払い、ぼつぼつと車内に入ってきます。
座席はすべて座っている人々でうまり、立っている乗客もちらほらいました。
そんな中、赤ちゃんが座っているベビーカーを、バスの中央のドアを開けてもらって、乗せようとしている30歳くらいの若いお母さんがいました。
彼女は、力強く、ベビーカーをよっこいしょ、と、車内に乗り入れさせて、ご自分も乗り込むことができました。
すると、すでにシルバーシートに座っている高齢の女性が、にこにこしながら、座りますか?と、若いお母さんに声をかけました。いえいえ、大丈夫ですよ。にっこり。
和やかな会話。
周りにいる60歳以上と思われる男性女性が、赤ちゃんに、にこにこと笑いかける。
男性のほうが、若いお母さんに、<どこで降りますか?>と聞くと、
若いお母さんは、<市役所です。> と、答える。この停留所はまだ5つ先だ。
この男性は、2つ先の停留所まできた時、<僕はここで降りるので。では失敬。>と、何だか昭和30年代の青年のように?さわやかに降りていった。
5つ先の停留所<市役所>で、バスが停車し、ドアが開いたので、お母さんが降りようとする。 そこにいた60歳の女性と、私とが、ベビーカーを、2人で外に出そうと健闘する。
(若いお母さんはベビーカー以外にも、大荷物を持っていたので。この場合、手助けしてさしあげるほうが良いでしょう! )
お母さんは、人の好意を受けなれていた。
私ともう一人の60歳くらいの女性が、ベビーカーを外に出して、赤ちゃんかわいいね、などと話していた時、お母さんはにこにこしながら、感謝を述べてくださった。
すると、バスの運転手さんが叫ぶ。
<ベビーカーのお客さん!運賃を払ってください!>
お母さんが、あわてて、運賃を払わなければと、バスに戻ろうとする。
その間、赤ちゃんは見ているから行って!と、私たちは答える。
お母さんは、バスの運転手さんに210円の料金を払い、汗をかきながら赤ちゃんのほうに戻ってきて、<ありがとうございました^^)>と、朗らかにおっしゃった。
まあ、なんて気持ちよい天気なんでしょう。
(こころとエネルギーに)余裕がある時は、ちょっと助けの必要な誰かに、ちょこっとヘルプさせていただけると、お互い幸せ。お互い様。
結局のところ、誰かの好意とか、親切が、ちょっとでもあると、バスも和んでいた。
そこにいるスマホをずっと眺めている、周りの世界を気にしていないように見える人々もその人の大切なじんせいを生きているのだろう。
私たち、何だか、ノンストップのバスに乗ってしまったような気もする。。
というのは、バス、とは、私たちの身体。一日ずつ生きていくと、時間経過により、その時は、赤ちゃんと言われ、幼児だと扱われ、小学生になり、中学生になり、、、、
大学に行く人も、、、あるいは、最初から、自宅にいる人も、または、フリースクールとか、、、、、そうこうしているうちに、身体とこころは成長し、ある日、成人だと言われ、、、25歳になり、、、、、、、
この間、ずっと、<わたし>は、<わたし>なんであるけれど、、、
この、時間経過による身体の変化、というものは不思議だ。。。
80歳過ぎても、この人の内側には、娘時代の憧れがあるかもしれないし、
90歳過ぎても、この人の内側には、青年期のイキイキとした喜びがあるかもしれない。
高年齢の身体を経験している人たちの、その年齢に関係ない、こころのみずみずしさとか、
生きる孤独について可、と言い切る姿勢とか、あるいは、何かある時に、おたおたしているのも、それも良し。
先日、私に電話をかけてきてくださった、親戚のおばちゃん(95歳)が、私に、
<ひさこちゃん♡> と、呼びかけてくださった、その愛情の含まれて柔らかい感じに、何だかとても幸せを感じてしまいました。
生きるのはいろいろあるけれど。
あなた自身をそのまま抱きしめて。
わたしはわたしで良かったな。と。
^^)
あなたに愛をこめて。