あるインド人女性の訃報を聞いて。

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インドの友人と、ヒンドゥー教の神様

インド人、バングラデシュ人の友人に、ヒンドゥー教徒の人たちがいます。
彼らの家には、それぞれ、信仰している神様がいらして。

うちは、~~神様を信仰している、、というふうに、それぞれありました。

豊かな家の人には、その神様に礼拝するためだけ、の部屋がありました。

たとえば、ベンガル語で、モノシュ(英語で、モノサー)という名前の女神様を
信仰していたカルカッタ(現コルカタ)の友人の家では、女神様のおおきな像がありました。 

その像の前で、家人が座って、お線香をたいたり、お祈りをしたり、、、、していました。

神様と生きる、というのが、日常の一部になっていて。

両親は、ベジタリアンで。
子供たちは、両親の強い信仰のノリまでいかず、信仰に、なんちゃって感があったりして。
それでも、神様と一緒にいきる感覚は、小さいころから生活の一部なので、それが
知らずして、血肉になっている。

あるインド人女性の訃報

先日、あるインド人女性の訃報を聞きました。
この方は、91才でした。

生前、まったく面識のない人でした。
知人が、この人の話を思い出とともにしたのを聞きました。

亡くなったインド人女性は、ヒンドゥー教徒で、神様に、人生をささげた方でした。
彼女は、人生で起きるすべてのことを、ナラヤナ神と相談し、会話し、生きていった。

ここで、私の言葉でうまく伝わらないのが残念ですが。。

まったく知らないこの人の訃報だけ聞いて、実を知らないのに、
その可憐さ、清らかさに、涙が止まらないでした。
その人が、その思う神様と一緒に、最期までいたろうこともわかりました。
生きるに本望の人生を生ききった尊い方。

日本人の私たちは、物質的にはとても豊かに生きています。

それでも、実は、こころの深いところから、何か普遍的なものを
求めている人たちは多いのではないでしょうか。
それが特に、何か神様、という対象でなくとも。

以下は、50才過ぎた私だから思うことなんでしょう。
私より年下の方が、ぜんぜん違うように感じるのは、自然なことです。^^

お金は使えば減ります。
物質だから。

私たちが肉体から離れたあと、、、
肉体を構成していたすべての物質も分解されます。

肉体に属してたすべての人間関係も、リセットです。
(もちろん、向こうで再会することはできます。)

では、何がのこるか、、、
スピリチュアルな存在としてのわたし、が、クリアな状態に戻っていきます。

また、今回の私たちの人生の余韻がこの世に残る。

この世をどう生きたか、、
どう愛したか、愛されたか、
何を経験したか、、何を選択したか、、、

まだ他にも、本質的な問いがたくさんあるでしょぅけど。。

とにかくいえるのは、物質界の《今あるもの》は、永遠ではないということ。

私たちは、自分が思っている以上に、すばらしい、肉体をもって生きる機会を
与えられています。

刻々と変化していく現実で、できるだけ最善の在り方をしていきたい、と、
改めて思いました。 よしんば、それが、誰かから、ぶかっこうに見えたとしても、
これは私の人生ですから。 ^^

(帰還するときは、人生の本懐を遂げるように、満足して帰りたいものです!)

まわりにいる人たちから、あとで、どんなふうに思い出されるか?
それも、私たちが、この世に残していくものですね。

完璧な人はいないですし、また、様々なかっとうがあったとしても、、
何か、愛とユーモアをもって、温かく思い出されるエピソードが
あったらいいなあ、、、、などと、思ってしまいました。 ^^

今日もありがとうございます。
あなたに感謝します (*^^*)

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