私の父は、2007年の初めに亡くなりました。
がん闘病を1年半して、自宅で、私たちから介護されて、最期、家で看取りました。
その後、これは2018年くらいの話です。
私は7月のある日、夕方、吉祥寺の東急デパートで買い物をすませ、その後、練馬の家に戻る予定でいました。
家に戻って、夕食を作ろうと考えているのに、、エスカレーターに乗っているうち、なぜか、「東急9階にあるお蕎麦屋さんに行きたい、お蕎麦を食べたい」という気分になってきました。
奇妙です、この時お腹がすいていません。
でも、とにかく、そのお蕎麦屋さんに私は今、行くのだ、という気持ちにありありとなっていきました。
それで、よくわからないのですが、エスカレーターをUターンして、、9階のお蕎麦屋さんに着きました。
ここは、昭和時代っぽい、昔の雰囲気があるお蕎麦屋さんです。
中年女性の店員さんに、席に案内されて。座る。
お品書きを手渡され、コップの水をいただく。
「とろろそばひとつ。冷たいのお願いします。」
店員さんは私ににこやかな顔を向けてから、厨房に注文を伝えに行く、、
そして、
せいろに入っている冷たいとろろそばがやってきた。
とろろが入っているお椀と、蕎麦猪口(そばちょこ。つゆを入れる容器。)があって。一瞬、どっちに、つゆを入れるのかと迷う。
私は、とろろが入っているお椀に直につゆを入れて、そこにそばを入れて食べ始めた。
なぜ、お腹がすいていない私が今ここでとろろそばを食べているのかわからない。。不思議だ。。
そして、食事が2/3済んだあたりで、湯桶(ゆとう)に入った蕎麦湯が運ばれてきた。。

その時!私の席の目の前の空席に、ありありと、亡き父親が座っている!という感覚がしてきた。
えええ。お父さん!!!
父はこの時に、私に対して、ニコニコしていて。
私がしていることを褒めてくれているのが伝わってきた。
ええ?私が見えている通り、お父さんそこにいるなら、別のサインもくださいな!
と思った。
すると、
テーブルに置いてあった、空の蕎麦猪口(そばちょこ)が、ツーツーツー、と、テーブルの上をすべるようにして、5cmくらい目の前で動いた!
あら!サインくれたわ!^^)
おおお。お父さん、私に会いたいと思ってくれていて、お父さんと私のタイミングが合うときが、この、たった今の蕎麦屋さんの時間だったのね!
蕎麦猪口が、またもや、ツーツーツーと、テーブルの上をすべるようにして5cmほど動いた!「そうだよ!」というサイン。
お父さん、こんなふうに物体を動かすことができるんだ!すごいねえ!亡くなってからずいぶん年数が経つものねえ!
^^)なんか楽しくなってきたねえ!
またもや、蕎麦猪口が、ツーツーツーと、テーブルの上をすべるようにして5cmほど動いた!^^)どうだすごいだろう!といった父の表現。
お父さんが、私と遭遇しやすいタイミングとして、この蕎麦屋さんを選んだのは、ここが、今はもう過ぎ去った、昭和時代を彷彿とさせるものがあるから、やりやすかったのだろうねえ。。
ということで、こんな形で、亡き父とやり取りすることができました。こういう亡き人との日中の具体的遭遇つて、私には珍しいでした。
この時間帯、まだ、夕食の時間には早い時間帯だったため、お蕎麦屋さんでたった一人のお客だった私は、この亡き父との時間空間を堪能しました。
名残惜しかったけれど、お蕎麦も食べ終わり、蕎麦湯もちょっとだけ飲んで、会計をすませ、「お父さんありがとうございます。会えてうれしかったです。バイバイ。またね。」

父が亡くなった後に。
後からそういえば、と気がついたことがあって。
父は1934年(昭和9年)生まれ。
栃木の田舎で。
彼は、両親を早くに亡くして、小学校高学年の頃から、自分でニワトリをたくさん飼い、卵を産ませ、卵を近くの町で販売することでお金を稼ぎ、それで学校に通っていたんですよ。たくましいし賢いですね。
その仕事を続けることで、彼自身は大学への進学を考えていたし、また、弟妹の生活も見ていた。
しかし、
高校2年のある日、彼のにわとりが、泥棒に全部持っていかれてしまった! これで稼ぐあてが0になってしまった!
そんなわけで、学費も払えなくなり、高校2年で退学しなければならなくなりました。この時の彼の苦痛を思うとあまりのことで可哀そうです。><)。。
彼はその後、東京の親戚を頼り上京し、とても苦労し成功しました。。
父は自分が教育を受けたかったのに続けられなかった悔いは一生持っていて。
その思いは、3人の学生に援助をする形につながりました。
父の死を後で知ったある60台の男性が、ある日、私の実家に来て、父の仏壇に向かい、おいおいと号泣していたそうです。
この人は、18歳から22歳になるまで、うちの実家から、部屋の提供と食事も無償でいただいていたので、貧しいながら無事大学が続けられ卒業できた、、この御恩は忘れません!と、後で語ったそうです。。
また、私が知っているだけでも、他に、父の甥が、大学に通う際の部屋の提供と食事も無償で受け取れました。部屋の提供は、もちろん、お風呂トイレ、洗濯も使えたという意味ですね。
また、母の甥が大学に通う際も、夕食の提供とお風呂の提供を受け取っていました。この人は近所に下宿を借りていて、大学が終わったあと、私の実家に来て夕食を食べ、お風呂をすませて、その後下宿に戻る生活を毎日していました。
↑この記事の前に書いた、「岩手のおじちゃんの息子のひとり」は、こうして、東京の親戚に頼ることができました。
父は早くに両親を亡くしたため、「いのちの儚さ」と、「家族のありがたみ」(「だからこそ兄弟姉妹仲良く!の必要性。みんなで助け合って生きていくのだ!」)を熟知していました。
たった一人で、「シャツとパンツを2枚ずつ持って、田舎から東京に出てきた17歳の男の子」が、、その後の苦労の末、東京にお店と自宅を持って、自分の家族を作れて、気にしていた弟妹も東京に呼び寄せて暮らして、、 十分な人生でしたでしょう。
お父さんありがとうございます!感謝です。^^)

