2018年吉祥寺薪能 能<恋の重荷>は、カタルシスになりました。

親愛なるみなさま

Dank u ブログに来てくださりありがとうございます。 ^^)

今日は、2018年10月の吉祥寺薪能(たきぎのう)のお話を。

(2019年の薪能は月窓寺で行われ、とてもよかったのですが、

私へのインパクト、という意味では、2018年のお能が、絶大だったので。。 ^^;) 今日はそちらのお話を。)

 

 

 

 

 

 

 

 

プログラムの後半。

能「恋重荷(こいのおもに)」

有名な、世阿弥の作だそうです。

ストーリーはこうです。

山科莊司(屋敷の庭履きをしている、身分の低い老人)は、ふとしたところで、女御(にょうご、身分ある女性、屋敷の女主人)の姿を一目みて、老人ながら、恋に落ちてしまいます。

それを知った女御は、<恋をする者に相応しい荷があるから、その荷を背負い、その状態で、庭を何度も回れば、もう一度、自分の姿を見せても良い>と、老人を、だまして言います。というのは、その荷は、最初から、人の手で持ちあがるような軽いものではない!

彼女と老人は、貴賤の違いがあり、身分違いというのは、昔は絶対なことですから、、彼女は、老人の思いなど、はなから、まともにはとっていません。どうでもいい動物のような者がそんなふうに言っている、くらいのトーンだったのでは。。

 

そんな女主人の思いも知らず、老人は、あこがれている女御の姿をもう一度見せていただくために、女御の望みを実現しようと、重い荷をなんとかして持ち上げようとしますが、できません、がんばってなんとかしようとしますが、結局のところ、疲れ果て、あっけなく死んでしまいます。

女御は、老人が死んでしまったことを側付きから聞き、老人に、彼女への執心をあきらめさせようと計った自分のやり方を悔やみ、罪悪感を感じます。

 

すると老人の霊は、怨霊となって現れ、自分を軽んじた女御を激しくなじり、責めたてます。女御の身体は、巌のように動かなくなり、老人の怨霊の責めなじることばが、きつく、彼女をくるしめていきます。こわくかなしいです。彼女は消え入りそうにつらいです。

 

その後、、老人の怨霊は、言うだけのことを言い、彼女が、十二分に苦しむ姿を見て、満足したのか、<彼女を守護する側にまわってさしあげる>、と、言い出す。

 

 

舞台は、まるで、平安時代の貴族の館のようなイメージ。

身分ある女主人なら、下働きの老人が言うことなど、人間が言ったこと、などと受け止めてはいなかったでしょう、 これって、昔はどこにでもありふれていたのでは、です。

なので、

女主人は、相手の自分への執心を、どうやってそらすか、しつこさを目減りさせるか、ということで、どうでもいい、持ちあがるべくもないような重いものを、老人に持ってみろ、と、強いたのでしょう。

 

それをまともに受け止めた老人は、最初、とてもナイーブ、純であり愚か、相手の言葉に、疑問をひとつもさしはさまない単純さがありました。

しかし、彼は、結局のところ、疲労からいのちをおとし、女主人が、自分の強い恋情を、何ととも思わない、非常にぞんざいに片づけたかっただけだった、を、思い知り、

怒髪天をつき、怨霊になってしまうわけでした、、、

 

一方、女主人のほうは、自分への執心はたいへん不愉快ではあっても、それ以外に何も罪咎をおかしていない老人への、自分の態度は軽率だったかもしれない、、などと、振り返って、罪悪感を感じている。。

 

その女主人に対して、老人は、これでもか、と、こころゆくまで、

うらめしや

と、言い立てる。

 

そうか、、こういう時に、うらめしや、って使うのか、、、、ひー(汗)

これ、、、、見て、聞いていて、たいへん、心苦しくおもいました。。。

 

また、それだけ執心し、そのあと、反転し、執心と同じだけ激烈な怒りとうらみを抱いた男は、女御をこころよくまで激しく責め立て、

それがある一定水量にまで達するや、一転、

彼女を許し、

最終的に、<おまえを守護してやる>と、いいたてる老人、、

うっわあ、、、これは、こわいとおもいました、、、

 

 

私が、女御なら、

<冗談じゃない! あなたは、ちゃんと、極楽にいくべく、ひとりで念仏でもとなえなさい!>くらい言いたいものです。

だいたい、そんなに、気持ちの執心が極端に揺れた相手が、自分の身近にはりつかれたくないのでは? 守護する?だいたい、守護にならないとおもいます。。

 

このあたり、、、作者の世阿弥さんに聞いてみたいのは、この世的には、<そこまで恨んだ相手を許し、守護してあげる>、というところで、このお話をまとめるあたりで、きっと、当時の人々が、涙を流す、それでいいんだ、おとしどころはそれだよな、、などと、おもった、ということなんでしょうか???

 

私が女御なら、それはわるいけど、まっぴらごめんだわ、と、おもいました。。^^;)

男性からの一方的な執心、、エネルギーはちょっとこわくおもいました。 愛がにくしみに変わったときのふり幅もものすごいですし。。

 

この老人は、自分の熱情をもりあげ、それに振り回されて、自分の気持ちだけが気持ちよく成立する事情状況(女主人が自分に美しい姿を見せて笑ってくれるとか、あわよくば、もっと、親密な関係になれればよい)になってほしい、、という最初の切望が、

何だか、あくなき欲望をつい抱いてしまい、それに一生を振り回されている、どこか愚かしい?どこかこっけいな人間の欲を示しているようで、切なくもおもいます、、、

 

それでも、、、この、うらめしや、をたっぷり聞き、そのあと、このお能が終わったあと、

 

はああああ、つかれたあああ、、やれやれ、、、、と、おもい、、

 

20

20人くらいの女性方が、会場を出て、市民文化会館近くの、個人営業のスパゲティ屋さんに流れこんでいきました、、私もそのひとり、、、お腹がすいた^^;)、、、、

壮年の女性方が、カウンター席にずらりと並び、盛りのとても多いスパゲティなのに、誰も残さず、全部、元気にもりもり食べている姿を、背中から見ていて、おもうのは、、、

 

誰か好きな人(または、どうしても理由があり、この人に主張しなくては、という対象の人)に対して、それが、自分の一方的な気持ちだけであり、相手の気持ちなど、一切考えないで、突っ走ったことなんて、人間生きていれば、人生のどこかでありそうであり、、、

 

相手からしたら、<もうホント勘弁してよ!、、>だった場合、、

それは、単にタイミングがあわなかった、とか、相性がいまひとつだった、といった理論で、これ以上、被害を広げないように、自分の気の毒な気持ちをうまくなだめて会話しよう、などと、するかもしれないですが、

そうではなく、

 

 

その相手の無理解、無慈悲のように受けとれたものを、

ちゃんと、はっきりと、わるびれもせず、一切のちゅうちょもなく、

 

私はあなたをうらめしくおもう

などと、

その相手に、たっぷりと、お腹の底から、主張しまくるのは、、、

 

きっと、奇妙なカタルシス(感情浄化)があるのかもしれない、、、と、お能を見たあとの、奇妙なすっきり感を感じながら、おもいました。。

 

私たち、現代の社会生活をしていて、この相手はきらい、とか、これはいや、といった気持ちをとっさに感じても、(何とでも感じるのは自然なこと)、それを、そのまま、ストレートに相手に言う、というのは、まず、あまりしないできているのではないか。

 

また、やはり、生きていると、これは、理不尽、といったシーンに至ることもあるわけで。

それを、ちゃんと、お腹の底から、 うらめしい  を認めて、主張するって、、、

たぶん、あまり、今の人はしてこれていないのでは、、、

 

だから、こういう、極端なお能で、ちゃんと、 自分の視点だけから見て理不尽してきた相手に対して、ちゃんと、 うらめしい

と、自分の気持ちを認め、主張しまくっている、お能の人物を見ると、私たちは、深いところから、すとん、と、納得するものがあり、癒されるのではないか?

 

まるで、自分のこころの底にあるかもしれない、太古の?昔の? 本人も忘れ去っているような同様の感情を刺激され、その次に、そういうものをもっていてもいいんだ、という受容、次に、カタルシスがおきて、その感情が、成仏できるから。

恨み、の気持ちって、存在を認められたら、すっ、と、なくなるのではないか。

このお能みた人、、とっっっても、すっきりするはずだ。

 

だから! お能をたった今、見てきた人たちの、、お能についての感想は

<すごかったね~(何が、かは、よくわからないけど)>くらいだけれど、

 

お腹はとてもすいて、

もりもりと、夕食はすすみ、

明日も元気で生きていこう

と、思えるんじゃないかしら。

 

お能は、本当に不思議な世界。

何でも、フランス政府、フランス人から、お能は、とても評価を受けているとのことでした。

具体的に、誰がフランスのどんな賞をもらったとか、、それは忘れてしまいましたけれど。。

 

フランス人だって、この、うらめしや、 と、ちゃんと言っている、幽玄の世界に、何か、癒されているのはあるのでしょうね。 おもしろいですね。

 

また、このお能<恋の重荷>の作者である、

世阿弥さん(14世紀の人!!!)より前の時代~世阿弥さん~昭和時代まで?

まだ、お能は、河原乞食、といったふうに、社会から小ばかにされていたような身分の人々であり、、、

この人たちは、社会からの取り扱われ方に、いくらでも、ちくしょう、とか、怒りや悲しみを抱いたことは、結構あるはずでした。。(私、それは、とても多重層で感じました。)

 

それでも、代々の、能を継承してきた人々が、耐え忍び、志を高く、努力を積み重ねていって、、

全世界がお能を価値ある文化として認める日がくる、と、それを強く望んだ、人々がいたはずだと感じました。

そして、その思いが、世阿弥さんを輩出して700年も過ぎてから結実し、、、

日本人のお能の方で、国宝と呼ばれる人々が数々生まれ、

かつ、フランス人、フランス文化の人々が、お能を熱烈に好きだ、と、言ってくれるようになったということなんでしょう。

きっと、世阿弥さんとか、それ以降の時代のお能の人々が、現在の認められ方を知ったら、とっっっても喜んだろうに違いないです。。 ^^)よかったでしたね!続けてきたことは、決して軽くなかったでしたでしょぅね。。

 

おつきあいくださりありがとうございました。 ^^)