私の親戚アメリカさん6人と、そのおじさんの家族②

愛するみなさま

こんにちは。(^-^)

いつもアナナスのブログに来てくださってありがとうございます。
あなたの存在にこころから感謝します! 

前回、あなたに、私のアメリカの親戚の話を聞いていただきました。
私の母のいとこ、ミヨコさん(1915- 2000)の、旦那さん、カズさん(1900- 1957)の話。

(ミヨコさん、カズさん夫婦と2人の娘。(息子はまだ生まれていない)
おそらく、1937年くらい。)
(ミヨコさんとてもきれいな人。この写真ではふっくらしています。)

。。。。

今回来日したうちの2人は、ミヨコさん、カズさん夫婦の次女マリー(76)(写真の赤ちゃん!)
息子、ジョージ(70)、、そして、それぞれの伴侶。

および、ミヨコさん、カズさん夫婦の長女アン(77)の、二男夫婦も来日しました。
(妻はメキシコ系アメリカ人! いかにも、肉食系女子! )

そして、今回、父親カズさんの、23才年下の弟が存命だとわかり、それで、
ジョージとマリーは、実のおじさんとその息子夫婦に会いに、家族を伴って来日したわけでした。

場所は、川崎のとある中華レストランでした。
コース料理を注文してありました。。 前菜、スープからはじまり。。。
でも、料理より、目の前にいる人々とのやりとりが刺激的で、味なんてわかりませんでした。

(70代の2人が、93才のおじさんに会う! 
ジョージと、マリーは、アメリカ式のハグをするのかと思ったら、おじさんと、静かに握手していました。
とても感動している様子でした。

それを見ていた私は、不思議な感覚になりました。 
ひとりの人生には、関係している人々の歴史が背景にあるのだ、ということ!)

(写真で青い洋服の人が私、アナナスです。)

彼らのおじさん、郁生さんは、93才(1919年、大正8年生まれ!)で、元気でした。
日本が激動の時代に生きた人でした。

(郁生さんの兄、カズさんが1900年生まれ、というのは、アメリカのお墓の記録から。
しかし、見せていただいた戸籍によると、カズさんは、1896年生まれ、でした。
どうしてこういう食い違いができたのか、私はわかりません。)サバをよんだ??(^◇^)?

話を郁生さんに戻します。
おじさんが生まれたころ、生家は、名古屋県で牧場!をしていたそうです。
なんでも、乳牛が15頭、やぎが数頭いたそうです。

乳牛から乳をしぼり、それを、お客さんの家に配達していたそうな。。

郁生さんのお父さんは、郁生さんに牧場をついでもらいたいと思っていました、
しかし、郁生さん自身は、アメリカかドイツに渡り、飛行機関係の仕事をしたいと
思っていたそうです。

1941年、おじさんが22才の時、太平洋戦争がはじまりました。
日本は、アメリカとイギリスに宣戦布告しました。。。。。

その時、郁生さんは、航空学を学ぶ大学生でした。

父親の喜一さんは、当時としては珍しく、アメリカ渡航の経験があり、アメリカと日本の資源に、
歴然とした差がある、と、知っていたので、
息子に、≪絶対に、軍隊に入るな、この戦争は日本が負ける、≫と言いました。

しかし、、、、あの当時の、血気盛んな若者がそんなことを聞くでしょうか。
身内からこう諌められた人が、むしろ、母国愛に燃えたち、軍隊に志願して入り、
そして、戦死した例など、数え切れない例でしょう。。

郁生さんは、自分で志願して、戦争に行くことになりました。
航空関係の専門家であった彼は、中国の奉天にある、戦闘機の部品を作る工場に配属されました。
中尉の階級、工場では、マネージャーのような立場に着きました。

最初は勢いがあった日本軍ですが、戦況はじわじわと追い込まれていきました。

父親の喜一さんは、牧場を売り、廃業しました。
彼が言うには、これからだんだん、人間の食べ物がなくなっていくのに、牛のエサ
どころではないだろう、ということだったそうです。(そのとおりになりました。)

ほどなく、日本国内でも、だんだん物資不足、食べ物が不足していく事態になっていきました。

戦況が悪化していき、日本が南方戦線で負けていっていることは、国民には知らされませんでした。。

結局、1945年8月、ポツダム宣言受諾。
無条件降伏、という事態。。。。
(戦勝国に対して、一切の条件を付けずに負ける、ということがどんなことなのか、、、、、
徹底的な敗北、ということでしょう。)


郁生さんは、戦争終結時、まだ中国にいましたが、ほどなく、ロシア軍が南下してきて、
他の仲間とともに逮捕され、シベリアに強制連行されていきました。

シベリアでは、水のようなおかゆの食事、極寒の気候に震え、、重労働をさせられました。
森で、また、畑での労働。。
仲間がバタバタと、死んでは放置されました。。。。

あまりの飢えに、森での作業中、なんでもいいから、木の葉を口に入れて咀嚼し飲み込んだ、
と、言っていました。。。

ここには、旧日本軍人だけでなく、ドイツ人、ハンガリー人、またそれ以外のヨーロッパ人も、
強制連行された人々がいたそうです。
郁生さんと同じ状況を耐え忍ぶ仲間でした。。

シベリアでは2年間、なんとか耐え忍びました。。
そして、解放されました。。

日本に、帰国後、飛行機のエンジニアだった経歴を生かそうと、就職活動をしました。

しかし、駐留アメリカ軍が、飛行機のエンジニアはニ度と表で活躍できないように、
圧力をかけていたそうで。。
郁生さんは、どこにいっても就職を断られました。

仕方ないので、彼は、福岡に行き、教師の口を探しました。。。。

現在、93才の郁生さんがため息をついて言うのは、、

もし、太平洋戦争がなかったら、自分は今、日本にいないと思う。
アメリカか、ドイツにいて、航空関係の仕事をしているはずだ、、、


でした。。

今日は、私の親戚、アメリカさんの父方のおじさん、郁生さんのお話でした。

今日も私におつきあいくださりありがとうございました。m(__)m