昭和時代のある家族のストーリー① 助け合って生きる。

愛するみなさま

いつもあなたがいてくださることを感謝します。^^)

今日から新しいお話を。。

ある家族のストーリー① 助け合って生きる。

これは、ある家族のストーリーです。

昭和時代の話です。

私がこれからお話する主人公の男性は、昭和9年、栃木県生まれ、田舎育ちです。

名前は、仮に、ここで、<公さん(きみさん)>と呼びます。

公(きみ)さんは、両親の元、5人兄弟の3番目として生まれました。

彼の両親はともに、地域の伝統品である、織物作家であり、結城紬を作っていました。

大きな織機が、家の中に2台あって、そこに、両親が座って、朝から晩まで、織物をつくっていました。

2台の織機の音は、リズミカルに、ずつと、家の中に響いていました。

結城紬の機織り機 画像元:https://kimonodo.jp/からお借りしました。

7間ある、藁ぶき屋根の家の前にある空間では、畑を一面に作っていて。

ここでは、家族7人が食べる、じゃがいも、たまねぎ、長ネギ、大根、ニンジン、にら、ほうれん草、といった野菜を、家族で作っていました。 (私は、どの野菜の旬が、いつなのか知らないので、ここに羅列します。)

また、家の裏には、柿の木が、十本あって。秋には、橙色の柿が豊富になりました。

画像元:http://komekami.sakura.ne.jp/

木陰には、8月お盆のころ使う、赤い実のほおずきや、また、ほうきにする、ほうき草といった植物もありました。

日の出とともに家族は起き、夕暮れは、いろりばたに火をいれて。。

シンプルで骨太な生活をしていました。

家から、50mも歩いてやっと、隣の家がありました。

隣の家が作っている桑畑が、あたりに続いていました。

画像元:https://ja.wikipedia.org/wiki/

桑の葉は、結城紬を作るためのまゆ(シルク)を作り出す、蚕(かいこ)という虫の食べ物になります。

蚕(かいこ)は、桑の実をもぐもぐと食べつづけ、お尻から細い糸を出しては、自分の身体のまわりに、以下のような、まゆ、を、作り上げます。(蚕は、まゆの中で、蛾のように、羽根を持つ成虫に変化していきます。しかし、人間は、蚕が外にでてくる前に、まゆ、をお湯で煮て、まゆの糸を使えるようにします。) これが、絹(シルク)の原料です。

公さんの両親のような人たちが、蚕からとられた絹糸を使い、織機を使い、反物、(生地)にしていきます。(それを和裁で着物にしていくのは、また別の人の手によります。)

とにかく、絹を生み出す蚕は、<お蚕(かいこ)さん>と呼ばれ、尊重されました。

この近辺の農家では、蚕を飼う棚があり、絹糸が作られていました。なので、蚕の食べ物となる桑が豊富にありました。

まゆ 画像元:https://ja.wikipedia.org/

桑畑の赤い実が成る季節は、通学でここを通る子供たちのおやつになりました。一面に広がる桑畑。あちこちから、桑の実を取っては、口にいれる、おいしさとともに、友達どうしの会話は、楽しいものだったでしょう。

画像元:

子供の口回りや手指は、桑の実の果汁で、赤く染まりました。

さらに、公さんの家から500mほど歩くと、背の高い木々があり。ここは、昼間でも真っ暗な林でした。

その近くに小川も流れていて。

公(きみ)さんは、少年のころ、長兄、次兄と、畑で、大根や、じゃがいもを収穫してきたり、川でたべられるたんぱく質(魚やうなぎ)を捕ってきたりして、

織物の仕事をしている忙しい両親の代わりに、兄弟で手助けして、食事のしたくをしたり、、、とにかく、いつでも、何かしらすることがありました。

男ばかりの5人兄弟。お互い、ありすぎる元気がからまわりして、すぐけんかになったり。

お母さんが仲裁してくれて。。

秋には、兄弟5人で、柿の木に登り、盛大になっている柿をむしり、ふんだんに食べ、、、、

家族にぎやかに暮らしていたそうな。。

しかし、、、、

公さんが6才の時、母親が病気になり、寝付きました。

この時、5人兄弟たちは、9才、8才、6才、4才、2才。

お母さんは、33才。お父さんは、38才。

医師にみせると、お母さんは肺病と診断されました。(この当時、肺病は、死病とされた。)

お母さんは、家の一番奥の部屋に移され、そこが病室となりました。

お母さんは綿の布団にずっと寝ていて。部屋の近くに来れば、時々、かぼそい声で咳をしているのが、中から聞こえ、時には、咳が止まらなくなりました。

<(病気がうつってはいけないから)あまり、お母さんのところに行ってはいけない>、と、父親は、子供たちに、つらそうに言いました。

それでも、、子供たちは、お母さんの顔が見たい。どうしても会いたい。だっこしてもらいたい。笑ってもらいたい。ほめてもらいたい。認めてもらいたい。

2才、4才の弟、6才の公さんも、まだまだ、お母さんが必要な年齢。

9才、8才の兄たちだって、ずいぶんがまんしていて。。。。。。

小さな男の子たちは、かわるがわる、お母さんのいる部屋のふすまを開けようとする。

ちょっとだけでもお母さんの顔が見たい。。。

ここに来てはだめよ。

そう言うお母さんも、それでも、子供たちの顔が見れるのは幸せ。笑顔になります。

でも、子供たちがここに入ってきて、もし、病気がうつってはいけないから、やっぱり、こわい顔をしなくてはならない。。

ここには来ないで!あっちに行きなさい!

日差しの暖かい日に、お母さんが、とにかく、あの部屋に寝ていてくれて。。

お父さんは、いつものとおり、機織りをしているけれど。家の中のリズミカルな音はひとつだけになっていて、どこか寂しそうです。

兄2人は、尋常(じんじょう)小学校に行っていて。勉強しています。

公さんと弟2人は家にいて、畑仕事もあります、簡単な食事の支度もあります。

日にちが過ぎていって、、

お母さんはいよいよ具合がわるくなっていて、、、

目にいっぱい涙をためながら、

<こんな幼い子供たちを残して(私は死ねない)>と思うのに。。。。。。

ある雪の降る日、、しんしんとあたりが白い世界で埋まった早朝、、、

お母さんがしんでしまった、、、、、、、

これまで、子供たち間で、兄弟喧嘩、学校の勉強、父親はユーモアある楽しい人だけれど、いったん何かで怒り出すと、とても厳しくつらいこと、、、、子供たちがこれまでの人生でたいへんだと思っていたことなど、ぜんぶ、吹っ飛び、、、、、、

ありとあらゆる幸福は、お母さんがこの世にいてくれるからそうだった、、

と、父親と子供たちは、愕然と気がついていきます。

ふとんに寝かされ、いつもの寝間着を着ているけれど。

もう動かない、冷たい身体であるお母さんに取りすがり、

子供たちは泣いて泣いて泣いて、、

兄たちが泣くので、

意味がわからない幼い弟たちも泣き。。

どうしてだかさっぱりわからないけれど

お母さんが動かなくなってしまった。

まだ39才の父親は、こんなとき、自分をどう支えたらいいのでしょう。

また、子供たちにどうしたらいいのでしょう。あまりのショックに言葉がでない。。

妻が、34才の若さで亡くなってしまった。

子供たちは、自分たちの想像をはるかに超えたことがあることを思い知らされた。

とにかく、お母さんは、空気が透けるように、、

もう、そこにはいない。。。

簡素な葬式が行われました。

近所の人たちが集まってくれて。

家の墓地の、深く掘った土の中に、お母さんの遺体は寝かされました。

近所の男衆が、スコップを使い、お母さんの身体に、大量の土をかけていき、埋めていきました。

その場所に、人ひとりが寝ているような形の、土まんじゅうができました。

こっちは仏さんの頭側だから。踏まないようにしなさい

頭側から少し離れた場所に、お線香をつけて、供えました。

子供たちは小さな手を合わせて。このあたり、公さんは、あまりのことで記憶がありません。。。。

7才の公さんにとっても、日常は戻ったはずでした。。。

10才、9才の兄2人は尋常小学校に行き。3才、5才の弟たちと、畑仕事をする。。

今日は大根、ほうれん草、長ねぎを収穫して、みそ汁にしよう。。

父親はいつものとおり、機織りの機械に向かっています。。とんとんとん、と、リズミカルな音が家の中に響いていて。

それでもこれまでとは全然違う。

お母さんがいつも寝ていた部屋のふすまを開けても、もうお母さんはいない。。。

つづく