なんで不十分だと思うのだろう?不十分だったら何かいけないの?(必要な方に)

愛するみなさま

今日もあなたのお役をありがとうございます! ^^)

いかがお過ごしですか? ^^

なんで不十分だと思うのだろう?不十分だったら何かいけないの?

素朴な疑問。。

私たちは、案外、こころの奥深いところで、<自分は十分ではない>とか、<自分はちゃんとできていないから、よくない、愛されない、認められない>という、奇妙なものをもっていたりします。。。

この十分ではない、、って感覚は、何なのでしょう?

私たちが子供のころ、、、

小学校で、算数のテストをうけた時に。。

テストの結果がもし、60点だった時、、何で、できている60点を認めて喜ばず、できていない40点に注目し、<できなかっただめなわたし>、を強調してしまうのでしょう? 親がそうだったから?先生がそうだったから?

素朴になぜなんだろう、と思います。。。。 ^^;)

この60点が、もし、100点だったら?満足できるの?認めてもらえるの?ゆるしてもらえるの?もうだいじょぅぶ、って、言ってもらえるの?

たぶん、他の教科の、100点でない部分に注目が移るだけなのかも。。。。。

これでは、たとえ、全教科で100点とれたとしても、、他のポイント、、たとえば、泳ぎが24mできないじゃないか、とか、、、友達の数が、、、できていないポイントが、探し出されてしまいそう。。。

だって、、<できていないところはどこ?><できて当たりまえだろう>という、見方が先にあるのだから!、それでは、できていないところがザクザクみつかるのはむりないのでは。。なんだかげんなりしそうだし。。。愛がないように思う!

何で、あれもこれも、カンペキに?できなければならないの?????

何のために???

できるべき、と、私に要求する人は、それができているというの?

誰か権威者が、私にそうすべきだという、<理想形>を、私がカンペキにクリアしていたら、今より何か解決しているの???

私はそれで幸せになれるの???

ラクになれるの??いったいいつ??

私らしさはどうなるの?

そのできていない、ことは、もしかしたら、味わいのひとつ、と理解するくらいでいいのかもしれない。そのくらいでもいいのかもしれない???

もしかしたら、どうでもいいことまでも、<あなたは~すべき>を、信じ込まされすぎていたのかもしれない??

どうでもいいことを手放してみたら、ほんとうに大切なことに気がつけるのかも?

あるいは、多少のごたごたがあっても、それでも居心地のよいわたし、でもいいのかも??

わたしらしく在りたい!

その欲求を、わたしはもっと大事にしてもいいんじゃないの!?

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バラの花びらが、咲き誇る時、人は、バラ園に行き、バラを愛でるけれど、、

バラの木は、花を咲かせていない期間のほうが、長いと思いませんか?

では、花開いていない時、バラの存在意義はないんでしょうか?

バラの美しい姿、うるわしい香りがなければ、存在意義はないんでしょうか?

バラのつぼみすらない時期も、庭師は、バラの手入れを、ほんのちょっとずつ続けていて、、

バラは静かに自信をもって、そこに存在しているでしょう。

バラが花を咲かせるまで、、、いろんなプロセスがありそうです。。

バラは、いつか”その時”がきたら、花が咲くだろう、を、疑わないで、”今この時”にいるのでしょう。だってそうなるから。そこに疑いの余地はない。

あなたは、あなたとして咲けばいい。

もし、今、咲いていないように感じたとしても、あなたというお花が咲くのを信頼していたらいい。 だって、それ以外になりようはないのだから! ^^)

いろんな時期があって。。お花がある時、お花がない時。葉っぱすらないような時。

どれも大切なあなた。。^^

あなたに愛をこめて。 (*^^*)

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